折笠美秋論・蝶が超えた時代
―社会性と芸術性の間で―
天野 小石
平成19年9月 「天為」200号記念特集号
筋萎縮性側索硬化症(ALS)、筋肉を動かす運動神経細胞が死んでいくことにより、
筋肉が痩せて萎縮し、段々と身体を動かせなくなる難病。
病気の進行とともに、顔面、のど、舌の筋力が低下して言語障害を起こす。
さらに呼吸筋が衰えて呼吸困難になると、気管切開をして人工呼吸器を装着するため話せなくなることがほとんど。
食事が出来なくなると、鼻から胃まで管を通したり、腹壁から直接胃に管を入れて栄養を取る。
運動神経のみが侵され感覚神経や自律神経系は障害を受けないため、知能や意識は正常に働いているが、
発症後四、五年で死にいたる例が多い。(マイペディア電子辞書)
俳人折笠美秋は、昭和五十六年頃ALSを発症し、ほぼ九年間の闘病の末、平成二年に長逝、享年五十五であった。
句集『君なら蝶に』(昭和六十一年立風書房刊)は、発病後入院先で、
目と口の動きから彼の言葉を夫人が読み取って編まれた作品である。
また当時、彼の闘病ドキュメントや、夫人の手記をもとにしたドラマがテレビ放映され、
広く世間にALSを認知させる切っ掛けともなった。
美秋俳句は、この境涯性によって形成されているといって間違いはないだろう。だがしかし、
ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう
この一句に表出した美意識は、果たして病難だけで語られてよいのであろうか。
この句に至るまでの彼の作品・評論から、戦後という時代を背景に、
彼が何を求め、何を成し、何を成し得ずに終わったのか、この論で検証してみようと思う。
一.高柳重信との出会い
昭和九年生まれの美秋は、終戦を学童疎開の地で迎え、
昭和二十二年、横須賀市の海軍跡地に創立された栄光学園中・高等学校の第一期生として入学。
民主主義の理念に基づいた教えに育まれ、自由に読み、書き、描き、感性を研ぎ澄ませていった。
その後、早稲田大学文学部国文科に進んだ彼は、俳人としての第一歩を「早大俳句研究会」に歩み始めた。
そしてある日、「いきなり高柳重信当人と会った。
彼は『黒弥撒』と題する作品集を、某月十三日の金曜日を期して上梓するのだ−−という、まさにいい気な話題を下げて、
早稲田の俳句研究会室に忽然として現れた」という。
重信の句集『蕗子』『伯爵領』『前略十年』を三冊のノートに書き写し、
「殆ど敵意ともいうべき憧憬の邂逅感」に満ちていた彼にとって、それは運命的な出会いであった。
『俳句評論』昭和五十二年九月に掲載された「かつてネメシスの季節」には、
私は苦虫を噛みつぶしていたに相違ない。
三冊のノートで感知した彼・高柳重信は、私のやりたかったことを躊躇もなくぬけぬけとやってしまった男だった。
いや、もっと正確に言えば、三冊のノートは、それがきっと私がやりたかったことなのだと、
遡って思い知らせるものであった。
と記している。また、
正気と狂気、というのとは完全に違う。日常・非日常というほうが少し近い。
具象と抽象とも異なる。
だが、いまは、やはり正気と狂気という言い方を使うしかあるまいととを思うので、そうするのだが、
原素的に、詩歌文芸とは正気と狂気の境界の、狂気の側に棲息するものであろう。
これ以外に何の謂もない。
いつか夢の間に正狂を明滅させた芭蕉も、彼の時代と師弟とを背景にしては、
ついぞ狂気に放埒することだけは具現し切れずに果てた。
枯野を馳せめぐった彼の夢は、この恨みであったろう。
そして正岡子規以降、全く俳句は正気の世界のものとして終始してきた。
と続けている。さらに、三冊のノートは、狂気の側の俳句作品、あるいは、狂気の側であると思おうとしている俳句作品、
との初めての邂逅であった。
*
遂に
谷間に
見出されたる
桃色花火 高柳重信
「花火の谷間」や「むらさき山脈」、「領内古謡」等と分類された各シリーズの句々は、
しきりに私の白昼夢の中に出没しはじめたが、なかんずく桃色花火は唇まで達して、
かの伯爵領の風景をさまざまに思いめぐらさせた。
と述べている。
「狂気の側」に向かうことこそが芸術でありうるという思いを、重信の俳句が強烈に美秋の感性に働きかけていた。
二. 初期評論
大学卒業後、東京新聞社に入社、美秋はジャーナリストとして社会と関わる立場となっていた。
傍ら、俳句評論や俳壇批判を旺盛に発表している。
昭和三十二年から三十四年(二十三〜二十五歳)にかけて、
「社会性俳句私見」(新暦)及び「俳句における思想性の限界について」(俳句研究)によって、
当時の俳句論議の中心であった社会性俳句、その方向性の間違いを指摘した。
俳句論議が余りにも純粋な文学論に走って、本来求められねばならぬところの問題の中核を忘れている。
難解な応酬に傾く・・・・そのような傾向の要素のひとつは、すでに出来あがった言葉を、
後ろから追いかけて概念規定しようとする、
人生探求派とか根源俳句とかで充分知らされた通りの愚である。 (社会性俳句私見)
戦後俳句の最大の課題は、桑原武夫の「第二芸術論」(昭和二十一年)に対する返答であったことに違いなく、
その一つの方法として社会性俳句の論究を試みた。
しかし、表面的な応酬に終始して、俳壇は詩における本来の社会性・思想性が何であるかを見失っていた。
そこに美秋の執着はあったのだ。
神田秀夫が『イメージ叙説』の中で触れている『言語は土台ひとりごとを云うためにあるのではない。
言語を以てする以上、一切の詩は、それがどんなに反社会的な傾向のものであろうと、人間性の社会的な表現である。』
と述べているのは、社会性の先ず根幹の問題であろう。
短歌俳句が、何故よくその重量を供え得ているかといえば、
それは短い言葉の中に仕遂げられている思想の抒情化であろう。
思想は人間であり、思想は詩ではない。詩はいつの時代も抒情である。
抒情の性格には差異が生ずるのは当然だが、現代でもやはり詩が抒情であることに変りない。
(社会性俳句私見)
社会性とは、思想性とはという問題に、主義やイデオロギーを語ることとは別のことなのだと言っている。
また、社会性俳句提唱へ対して、
「(これは)ボクの無邪気な反発なのだ。
いわば現代社会での適正を欠いたこの感情を所有することが、噪音と怒号の中での詩人の飽くことなき処女性の本態なのではなかろうか。」
と述べている。
そのことに関しては、さらにプルーストを引いて、
プルーストの世界を解明するに当って、
アルノー・ダンディユは“特権的瞬間”という合鍵が必要であるといっている。
・・・・(特権的瞬間とは)自我精神が人間的制約、社会的制約の埒外に飛翔する瞬間のことであって、
社会の因習や俗論でがんじがらめに支配されている倦怠と疲労を離脱して、
高らかに発露される感情のほとばしりにの中で生の真実十真善美の本髄に確信すべき
何ものかを掴みとった瞬間のことなのである。
もし俳句に思想性があるとすれば(そしてあるのだが)
それはこのようなこと−−つまり論理的認識の中では縛し切れない特権的瞬間への魅惑
それ自体・そのようなことから発する詩人の反社会性、反主義性――なのだ。
(俳句における思想性の限界について)
ここから窺えることは、彼の俳句における芸術的価値観であり、「狂気の側」であることのこだわりなのだ。
「俳句は世に背いての存在であり、世に背かぬときに俳句は不要なものに過ぎない」という。
それとまた同時に、詩における社会性・思想性の重要性を強く認識していたからこそ、
当時の安易な社会性俳句を批判出来たのだろう。
三. 第一句集『虎嘯記』
「作品のリアリティは俳句形式の中で機能する言葉自体の力によって支えられる」、
この俳句観をもって、第一句集『虎嘯記』は昭和五十九年に、既にALSを発症していたが、
高柳重信の励ましを受け上梓された。
二十〜四十代の作品を収録している。
満月のうらへまわって消えしかな
現実の月に虚構を重ねた二重構造。
満月の裏側に入るように消え去ったものへの追憶、
または面子のような満月が裏返って闇の面になり見えなくなると言う、視覚的幻想。
美秋初期作品という時代を考慮すれば、解釈は前者であろう。
連打いま 弾痕・・・となり 星座・・・となり
字面に意匠的な試みを持ち込み、聴覚・視覚にぱらぱらとしたものの連続をイメージさせる仕掛け。
その次に「連打・弾痕・星座」という言葉からの想像を読者に投げかけてくる。
それは数多の命が暴力によって失われてゆく、この世の現実への哀しみなのだ。
去りゆけり白鳥の白 金輪際
分ち書きで下五に据えた金輪際とは、仏教語で地層の最下底、無限に深いこと、物事の極限。
白鳥は空の彼方に去りゆくけれど、白鳥の「白」が意味する純粋性は、無限に深い所へ堕ちていってしまった。
他にも斬新な想像力によって、思想の抒情化を成功させ、詩へと昇華した作品は多い。
めつむれば軍馬が一匹逃げてくる
耳おそろし眠りのそとで立っている
杉内部滝秘めおれば直立す
いちにちの橋がゆっくり墜ちてゆく
死にごろとなり桃の木に桃登る
杉林あるきはじめた杉から死ぬ
天禮やゆうべ毛深きももすもも
夢夢(ぼうぼう)と湯舟も北へ行く舟か
棺のうち吹雪いているのかもしれぬ
完璧なソナタぶるんと兎耳
すぐ死んでみせるは鮒の遊行(あそび)かな
月光写真まずたましいの感光せり
杉たり 一本杉たり 倒れて銀河と称ぶ
人語行き 虎老いて 虎の斑のなし
この時期の美秋作品に共通して見られる特徴は、強い美意識と、時代に所以する思想性であり
、前項で考察したところでもある。
昭和三十〜四十年代の激動の時代を、ジャーナリズムの一員として働いていた彼は、
六十年安保、全学連、全共闘、内ゲバ、日本赤軍などの闘争、
また高度経済成長、公害問題、汚職事件、それらの出来事をその渦中において、
一歩引いた中立の立場から見続けていたのだ。
俳句作品上に、芸術性と社会性の双方を求めたのも、必然と言えよう。
ところで次の句に関しては摂津幸彦が書き残しているので、部分的に引用しておこう。
あはれとは蝶貝二枚重ねけり
(前略)簡単に読みこなせそうであるが、そうではない。
深読みをせんとすれば、きまって喉に魚の小骨がささったような、ある種の厄介を感じてしまう。
折笠美秋の句の特徴として何か只では読ませないぞとといった風な惹思の見え隠れを指摘するのは、
さほど間違ってはいないと思われる。(中略)
・・・上五、「あはれとは」でこの句は一旦強く切れる。
切れる事によって初めて下五の「重ねけり」の「けり」の切れも本領を発揮する。・・・
一行で書き留める際にもつね に多行形式が念頭にあったとしても不思議ではない。・・・
(これは)一行書きに、しばしば散見される分かち書きや、多行空間へ、
まさに翔びたたんとする句のたたずまいに思い入る事で充分に推測が可能である。
この事は美秋俳句の難解さ加減にも少し関わっていると思われる。(中略)
(蝶貝は)蝶番のある二枚貝の総称かとも思ったが、形や斑紋が蝶に似ている二枚貝の類とする方が、
「あはれ」という言葉を一層引き立ててくれる。
アコヤ貝の如く内側が真珠色に輝いている事を想像すると尚更である。
(平成八年『夢幻航海』五月号「折笠美秋七回忌小特集に寄せて」)
四. 前衛俳句考
昭和四十年代は、美秋の俳句評論の最も活発な時期だった。
主に、季語季題・有季定型の再考察、表記法(多行形式・分ち書き等)についての試考、
そして前衛俳句とは何かを論じている。
また高柳重信を始め、富澤赤黄男、三橋鷹女、永田耕衣、加藤郁乎、金子兜太等の作家論も発表している。
俳壇に、前衛俳句という呼称が現れたのは、およそ昭和三十五、六年のことだったようだ。
二十世紀初頭から、絵画・映像・音楽、その他芸術分野の多岐にわたって、広く前衛(アバンギャルド)が求められた時代があり、
文芸においても前衛短歌が出現し、それを経て俳句にも前衛派が登場した。
しかしその頃には既に、前衛はあらゆる文化の中でブーム化し、
前衛芸術の本質を、これもまた社会性俳句の場合と同じように、どこかに忘れ去られていることを、彼は指摘している。
では彼にとっての前衛とは何であったのか、こう論じている。
〈前衛〉とは真の〈正統〉の、着せられかけた仮面である。
ボクが思い切りよく安売りして、〈前衛俳句〉と、そう称される人々を語れないのは、
それが、ただ今日の俳壇という時代にあってしか〈前衛〉でないからだ。
それは〈前衛〉でなく〈前衛的〉であり、前衛俳句ではなく〈前衛的俳句〉である。
今日、本当に〈前衛俳句〉といわれるに値すると同時に、それはいつの時代、芭蕉の時代、いや宗祇の時代に於いても、
さらには、やがての二十一世紀に置かれたとしても〈前衛〉でなくてはならないのだ。
ボクは芭蕉もまた、かつて生きた典型的な〈前衛〉のひとりと思う。
そうした〈前衛〉たち少数の前衛たちで、〈正統〉は書き継がれ、形成されてゆくものなのだ。
(昭和四十三年『俳句評論』十二月号「蒼顔のヴァルキリ」)
芸術において、「先端」と「伝統」は相反するものと誤解されることが多いが、
彼の論ずるとおり、伝統や正統は先端に立つ者が作り上げてきたのである。
例えば日本美術の世界では、雪舟や等伯も前衛だったのだ。
また大勢に対する「先端」がしばし「異端」と呼ばれるのも認識の過ちであるが、
それを承知の上で、彼は芭蕉に、重信に、「異端」という言葉を冠し、「異端の幻夢」「非道の系譜」「置き捨ての美学」を語った。
これら前衛論も既に言い尽くされ、今では古めかしいものとなってしまったが、
俳句、俳壇が、他の芸術の後追いであるという状況は、それはそのまま現在にも至っている。
いかに俳句が、俳句の、そして文芸の世界の中だけに終始して、他の多くの芸術の先端を知らず、
視界を閉ざして盲目状態に陥っているか、美秋の評論が今でも警鐘を鳴らしているのが聞こえる。
五. 美秋と蝶
昭和五十六年のALS発症以降約九年の闘病生活の間に、美秋は三冊の句集と一冊の随筆集を病室から上梓している。
先に挙げた句集『虎嘯記』、六十一年の句集『君なら蝶に』、六十四年の句集『火傳書』と随筆集『死出の衣は』である。
それら全ては、わずかに動かせる目と唇の動きを読み取って、妻が原稿を書いたものである。
微笑が妻の慟哭 雪しんしん
七生七たび君を娶らん 吹雪くとも
暮れのこる白鳥の白 なお生きよと
次の世は茄子でもよし君と逢わん
かくも長き長き臨終 また夏の詩
開くかな百合は涙を拭いてから
たましいの色 暮れなずむ桔梗色
花明り あしたは狂うわれならむ
その軽き土笛が欲し吹く息欲し
その耳 大きく熱かりき わが胸音を聴く
金色になるまで親指を見つめている
この世の側のお太鼓帯の銀すすき
筆濡れて立つ杉族や百年書く
鬼哭この夜の桃の木揺すぶる風は
海嘯も激雨もおとこの遺書ならん
桃咲くと一つこの世の闇消ゆる
ととのえよ死出の衣は雪紡ぎたる
すでに方舟発てり吹雪いて見えざれど
白棺や月光胸に重からん
ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう
動けぬにあらず動かぬ千年杉
胸中に海鳴りあれど海見たし
海嘯と死んじゃいやよという声と
行き果ての夢山脈よ行き果てず
なお翔ぶは凍てぬため愛告げんため(『君なら蝶に』より)
生きはぐれ死にはぐれまた桃を見き
生者死者ある夜乗り合う月光舟
麺麭屋まで二百歩 銀河へは七歩
君と居て銀河が地まで降りて来る
海の蝶最後は波に止まりけり
白桃や愛するという包むこと (『死出の衣は』より)
ここに並べた作品では、繰り返し同じ言葉が使われていることが分かる。
杉・桃・耳、句集全体の中では蝶(「蝶貝」も含め)も幾度か詠まれている。
「杉」には自分自身を、「桃」には世界を、「耳」には社会を想像することが出来る。
これは二項で述べた「思想の抒情化」のための彼のキーワードなのだ。
そして中でも「蝶」には特別な意味を仮託していると言えよう。
彼は「蝶に会った頃ー高屋窓秋覚え書きー」(「俳句評論」昭和五十五年百八十八号)において次のことを書き留めている。
高屋窓秋さんは、「百句自註」で、
鐘が鳴る蝶きて海ががらんどう 窓秋
に触れて、「地球上の、あらゆる戦場の跡に鳴り響いた鐘。
海もがらんどうなら、人類もがらんどうだ。ぼくの蝶が現れる。
・・・『ぼくの蝶』、いま説明の中に使った言葉だが、この蝶は絶えずぼくの中にいる蝶」などど、記している。
ここで窓秋の蝶が象徴しているのは詩であり美である。
美秋は、「“荘周の夢”に由来する、夢の中で自分が蝶になっているのか、
もともと蝶である自分が仮に人間となっているのか、
現実と夢幻を境目なく出入りするあの蝶のイメージ」を窓秋に重ねて見ていたという。
そこから蝶=詩・美という感覚が彼の美意識の中に浸透していったのだろう。
六. 蝶が超えた時代
句集『君なら蝶に』について川名大は次のように述べている。
一句一句は、智津子夫人・愛息愛嬢・高柳重信や中村苑子をはじめとする
俳句関係の師や知友たち・栄光学園の恩師や友人たちへの、
また俳句自身への、さらに森羅万象への遺書であり、無上の純粋敬虔な愛と祈りである。
就中、智津子夫人へ向けての愛と命のいとおしみの連?である。それを象徴する一句が句集名となった、
ひかり野へ君なら蝶に乗れるだろう
である。
だから、『君なら蝶に』はどの句が佳句かなどと審美的に読むのではなく、
一句一句すべてを丸ごと読むべきものである。
そのように読むことで、折笠がそこにこめた敬虔な愛と祈りと詩魂がうけとめられるだろう。
(東京四季出版「現代一○○名句集I」解題より)
「ひかり野」の一句が病難で語られてよいのかとこの論の始めに記したが、
美秋は不治の病という境涯にありながら尚、彼の俳句観である「俳句は目の前の現実の光景や心情の誠実な再現であったり、
あるいは政治的イデオロギーなど、何かの用のために奉仕したりするものではなく
言葉で表現することによって新たに生み出される自立した言語空間の世界を目的とし、
詩的現実はそこにしかない」(「現代俳句上」川名大)という思いに従い、
境涯性に溺れることなくその詩世界の構築に努め、命懸けで自身の美学を貫いたのだ。
だからこそ彼の蝶は、昭和の社会性俳句や前衛俳句の時代を超えることが出来たといえる。
これが一つ、彼が成し遂げたことである。
では成せずに終わったこととは。
*
鬼 およそ
その背後 は
桔梗 なり
*
仰向けや
胸森林と
星面感覺
*
いずれ土中の
耳 崩れつつ
葉ずれ
衣ずれ
*
月下にて
白骨にて
着くずれ
着なおし (『火傳書』より)
高柳重信との出会いから
「作品も評論も、高柳さんに似通わない、なぞりにならないことが、第一の必須条件であった」
と言っていた彼が、最後の句集となった『火傳書』を、多行形式で書いている。
それは重信の死後、自らの死も間近に迫ったとき初めて、多行形式を継承する責任を思ったのかもしれない。
追辞
ぼくは高柳重信を失った。
君は高柳重信を失った。
ぼくらは高柳重信を失った。
彼等も高柳重信を失った。しかし。
しかし、俳句形式をして、高柳重信を失わしめてはならない。そのために。
そのために、ぼくは、ぼくらは、何を為すべきか。なさねばならないか。だが。
だが、はたして何を為し得るのかと思えば、空々、漠々、暗澹忸怩たる思いを止めえない。(中略)
そう、やるべき事は沢山ある。
そのために動く手が欲しい。
友よ我れは片腕すでに鬼となりぬ 重信
願わくば、その片腕を貸し与え賜え。
安らかに眠ることなく、荒ぶる魂をこの世に留め、
蕭々たる風の音、嫋々たる雨音として、その声を聞かせ続けたまえ。
(「俳句評論」終刊号によせて・『君なら蝶に』収録)
重信や美秋の残した形式が、今後継承され得るかどうかの見極めには、今しばらくの時間が必要だろう。
ただ彼等の試みた俳句に、その次世代の我々は、皆何かしらの影響を受けて来たことは確かである。
あの昭和の時代を経て、そして我々は今、細々と、しかし着々と、正統の世界を取り戻しつつあるのだ。
以上